合唱・コーラスの豆知識、合唱・コーラス関連の話題が満載。
 Home   
     
合唱・コーラス あれこれ
 

全国合唱団リンク
全国の合唱団リンク集
(都道府県別)

合唱関連リンク

「第九」カラオケ&合唱パート別レッスン
 

 








 


合唱・コーラスあれこれ 第九を歌おう

年末に第九が多いのは  
第九の初演物語(世界初演)  第九の初演物語(日本初演)
「第九」合唱団(練習の基本は)
「第九」の歌詞(独語・邦訳)  「第九」の歌詞(ごろあわせ編)
第九のCD  第九のDVD  第九の本  第九の楽譜
一般公募がある第九


第九の初演物語(日本初演) 

 第一次世界大戦後に徳島に収容されたドイツ人俘虜たちは、実に多彩な活動をし、西欧特にドイツの優れた文化や技術を伝え、今日に繋がる実績を残した。特に、音楽面では、楽器や楽譜の製作、調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団を結成した。実績を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、日本初演のベートーベンの第九の演奏である。

日本で収容、ドイツ捕虜

 話は、第一次世界大戦にさかのぼる。日英同盟の誼みにより、英国の要請を受けた我が国は参戦、大正三年(1914)太平洋のドイツ領の諸島とともに、ドイツの租借地であった青島(チンタオ、中国山東半島)を攻撃した。敗れたドイツ将兵約五千は捕虜となり、九州から関東に到る各地に収容された。その後、大正六年収容所が再編整備され、四国では鳴門郊外の板東に約千名が集められた。世に言う板東俘虜収容所である。
 ここに、世界史上類例をみない、俘虜たちの創造・文化の活動や地域住民との交流が始まった。(ちなみに、当時の捕虜は収容されると俘虜と呼ばれた。)

ドイツ俘虜の多彩な活動

 俘虜には、民間人も含まれていた。俘虜たちは、実に多彩な活動をし、西欧特にドイツの優れた文化や技術を伝え、今日に繋がる実績を残した。例えば、人々に酪農経営を教え、パン・バター・チーズの製法、園芸栽培法、印刷技術を伝授した。収容所の中に、自らの手で、印刷所・図書館・音楽室など、様々な施設を作り、外では、橋を架けた等々。また演劇、スポーツ、芸術の分野の活動が活発であった。
 特に、音楽面では、楽器や楽譜の製作、調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団を結成した。演奏回数は数多く、時折、市内でも開催された。その一つが、四国八十八箇所一番札所の霊山寺おけるエンゲル楽器団の演奏である。(この写真がよく各種の印刷物に使用されているので、目にした人もおられると思う。)

ついに、本邦初演の第九に到る

 実績を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、ベートーベンの第九の演奏である。困ったことに、第九となればソリストと合唱団に女声が必要となる。もとより、俘虜は男ばかりなので、やむを得ず、楽譜の該当部分を男声用を書き換えるなど、幾多の苦労を重ねながら練習したという。ついに、大正七年(1918)六月一日、軍楽長へルマン・ハンゼンの指揮の下、収容所内で全曲演奏された。合唱団は八十名であった。本邦初演の「第九」であり、しかも大正年他に日本で演奏されることはなかった。ベートーベン自身による初演から数え九十四年後の、また、数多くの人が「第九」を歓迎し始める契機となった、ワーグナー指揮の演奏から七十二年後の、壮挙である。そして、本邦初演から64年後の昭和五十七年、この六月一日は鳴門市の「第九の日」となり、第九を縁とする鳴門市や徳島の内外との交流の出発点となった。

鳴門の板東に、ドイツ捕虜の文明が花開いた理由

 では、なぜ、日本各地にあった俘虜収容所の中で、ここだけ、このような異例の活動ができたかという疑問に行き着く。往時のドイツ将兵の水準の高さだけでは説明がつかない。それなら、他の収容所でも似たようなことができたはずである。私は、このほどこの地を訪ねる機会があったので、鳴門市長さん外、何人かの方にこの疑問をぶつけてみた。皆さんのおっしゃることや資料を総合すると、どうやら次の三点にまとめられる。

 第一は、収容所長松江大佐の極めて寛大な俘虜処遇の方針である。会津藩士の子息であった大佐は、明治維新の戦いの中で、敗軍の惨めさを父から聞かされ、人道主義による俘虜の処遇について深く期するところがあったと言われる。この方針により、ドイツ俘虜は比較的自由な生活を送り、また実質外出自由であり、外泊する者もいたようである。収容所の活動や、住民との交流が可能となる素地がここにあった。

 弟二に、この地が四国のお遍路さんを受け入れる一番の札所であったことである。人々は、各地からやってくる遍路の旅人を泊め、もてなすことに慣れ、これを誇りとして来た。そこへ、異国の元将兵がやって来ても、受け入れることに抵抗感は少なかったと言われる。人々は、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、多種多様なことを教わり、親しみをもって交流した。その結果、「ドイツさん」も日本文化を受容し、最近わかったことだが、例えば忠臣蔵をテーマに作曲も行われていた。研究や調査が進めば、もっと多くの事が分かってくるだろう。

 第三に、この地が塩田や染料の藍の生産などで、当時の日本ではかなり豊かな地域であったことが挙げられる。かくして、収容所や俘虜の活動を経済的に下支えしたり、今日の言葉で言えば、スポンサーのような仕事をした地域の人々も結構いたと言われる。文化は、やはり、相応の豊かさが支えとなるものなのだ。

再確認された偉業と我々

 忘れてならないことは、こうした「ドイツさん」たちの事跡も歳月の経過と大きな時間の変遷の中で、その後、あまり取り上げられなくなり、漸く近年に至って、再び注目を浴び、復活再生の流れが出て来たことである。その間、60年余の年月が流れる。歴史が決して一本道でなく、濃淡、紆余曲折を経るものであることがよく分かる。
 我が取手「第九」もこの鳴門を含め、既に内外との交流を手掛け、9年余の間三回の演奏を実施、今やドイツでの親善演奏が大詰めを迎えている。広く想いを巡らせれば、我々の実績や試みも、はなはだ意義深いことが理解できよう。

追記:本文末尾に記されている取手「第九」合唱団のドイツ演奏旅行は、昨年(平成七年:1995年のこと)十月の取手での演奏をベースに、昨年末から今年の年始にかけて、筆者を団長とする百六十名余の団員が訪独して行われた。ドイツ側音楽監督、ウェルナー・シュティーフェル指揮の下、バーデン・バーデンフィルハーモニーやソリストとの演奏は、バーデンバーデンなど二都市で行われ、大成功を収めた。そのとき、ドイツ人の聴衆が総起立となった拍手が、七分間も打ち続くなど、素晴らしい感動体験を双方が、共有した。
 ともに、敗戦国である日独両国民が戦後五十年の昨年に、平和と友愛を歓喜の曲で歌い上げたのは、意義深いことと言える。
 筆者は当時、取手「第九」親睦会会長の任にあり、現在もその役員をしている。
                         (by 元国土庁審議官:仲津真治)



混声合唱 ベートーヴェン 交響曲第9番第4楽章










サイトマップ | サイトについて | リンク集 | メール
クラシック音楽情報 | ザ・オーケストラ | リサイタルの開き方 | 吹奏楽・ブラスあれこれ | ピアノ発表会のヒントあれこれ
Photo by m-style.  Base template by WEB MAGIC.   Copyright(c)2008  合唱・コーラスあれこれ All rights reserved.